紫陽花



 あじさいは白く咲いて、桃色、紫、青、と色を変えていくものだと思っていた。

「違うよ。土壌のpHによって変わるんだ。理科でやったろ。リトマス試験紙だよ。」

 彼はそんな私を笑って、さも当然そうに教えてくれた。

ドジョウノペーハー。

この人はとてもたくさん物を知っていて、私の世界をどんどん変えていく。無秩序にうごめいていた私の世界は、きっちりと線を引かれ、日々、丁寧に収納されていくのだ。

相々傘は嫌いだと言って一歩先に行く彼は、紺色の傘をまっすぐに構えて、けしてくるくる回したりはしない。傘とそっくりの色のスーツをまとった背中。

メグミさんも、その時、こんな風にこの人の紺色の背中を見ながら歩いたのかしら。

まっすぐに伸びた背中。雨の日なのに、少しも汚れていない靴。

「ねぇ、メグミさんの話をして。」

 私は彼女のことをひとつも知らなかった。それまでは聞こうともしなかったから。彼の紺色の傘から、水が数滴落ちる。

 なんでそんなこと聞くんだ、とか、そんなこと君には関係ないだろう、とか、そんなよくありそうな反応を、彼は示さない。痛いほどの誠実さで、私の無茶な要求に応えようとする。まるでそれが彼の責任とでもいうかのように。そうだな、と、口に手を当てて少し考えてから、少し上の方を見つめながら、

「背は君ほど高くはないな。高いところの物、天袋にしまってある物とかはよく取らされたよ。車の運転が下手なくせに、よく奥さん連中と遠くまで遊びに行ってた。君は確か免許は持ってないんだよな?」

 うん、とうなづく。

「そう、その方がいい。基本的に彼女は僕がいい顔をしないことは何でもしていたな。夜間のなんとかスクールにも通っていたし、朝っぱらから鼻歌を歌っていてよくそれで起こされた。」

「いやだったの?」

「いや、別にいやと言うほどのことじゃないけど。僕のリズムではなかったかな。」

 ふうん、と相槌のようなものを打つと、この話題はここで終わったものと判断したらしく、彼はまた半歩先のほうを歩き始めた。長い足で颯爽と。目はまっすぐ前を向いて。

 この人の背中は、私が見ていないところでもいつもこんなにぴんと張っているのだろうか。たとえば、メグミさんと一緒に歩いているときも。

 歩く私達の横を、水をはねながら車が通り過ぎる。歩道の脇には大きなあじさいがいくつも咲いている。土壌のpHで色を変えるあじさい。

 

やめるべきよ。

 弥生はいつでも断固とした口調で私にそう言い放った。

「だってあんた今、全然幸せそうな顔してないもの。最近鏡見たことある?」

 もちろん毎日見てるわよ。私はストローで氷とコーヒーをぐるぐるかき混ぜながら、無力にも抵抗した。私はちゃんと幸せよ。

 本当の本当に?と、弥生はまっすぐに私を見据えながら、疑い深く聞いてくる。大丈夫よ、と私は笑ってみせる。彼女には抵抗できたためしがないことを知りながら。

「私は私の親友に、本当に幸せになってもらいたいから言ってるのよ。子供もいるのに別れるだなんて言う無責任な男、あんたに合ってるとは思えない。」

 そう言うと彼女は、ケーキの最後の一口を放り込んだ。

 弥生を花に例えるなら、大輪のガーベラだと私は思う。明るく暖かな色彩で、一輪挿しにすると格好良い。とてもお日様の似合う花。


 どこか遠くから、げこげこと蛙の鳴く声が聞こえた。町中なのに蛙がいるのね、と呟くと、彼は振り向かずに、そうだな、と呟き返した。

 次の信号を渡って、古い喫茶店と小さな花屋さんのある商店街を抜けていくと、区役所に到着する。私達はそこで今日、薄い紙切れを一枚、出すのだ。

 一歩後ろを歩いていると、彼の首筋辺りに私の目線が行く。少し長めの首。なだらかで広い肩幅。途方もない背中。年齢のわりに綺麗に締まった腰。きゅっと上がった私の大好きなお尻。長くてまっすぐな脚。彼の一歩後ろを歩くのが好きだ。弥生なんかは絶対男の人の後ろなんて歩かないだろうけれど。後ろから歩いて、彼の後ろ姿をじろじろと眺めるのが好き。どうしてこの男の人はこんなに綺麗な体をしているんだろう、とほれぼれしてしまう。

 思えば最初のきっかけも、私が彼の姿をじろじろ眺めていたことから始まったのだった。プールサイドで。トレーニングマシンの横で。アイスコーヒーを飲みながら休憩所で。

「よく目が合いますね。」

はにかみながら話しかけてきたのは彼の方だった。言われて初めて、私は自分があまりにも彼の姿を目で追いすぎていたことに気が付いた。ごめんなさい、とうなだれると、どうして、と彼は笑った。それで私は後ろ姿以外にも、彼の見所は多そうだと感じてしまったのだ。

 彼は少し振り向いて、私があまり急ぎ足ではないことに気が付いた。彼の歩幅に合わせようと一生懸命歩くと、こんな雨の日は靴がびしょびしょになってしまう。彼には楽な水たまりも、私には楽でないことがある。

「疲れた?」

ほほえみながら彼が聞く。駅からほんの数分の距離で疲れるはずもないのだけれど、私はお茶でもどう、と誘ってみる。いいよ、と笑う彼の、肉の付いてない頬を見て、私は少し冷静になる。


 深い色彩でまとめた静かな店内だった。お客は常連さんらしいおじいさんがカウンターに一人いるだけ。私達は窓際の席に通された。焼いたような渋い色の、単純なテーブルセット。

 キリマンジャロとアイスコーヒーを頼むと、彼はテーブルに肘を付き、手の指を組んで、その上に顎を乗せた。

「なにか戸惑ってる?」

 彼の目はまっすぐに私の目を見つめる。私は彼の、無骨な指々を眺めた。

「指輪。」

「え?」

「指輪、外したのね。」

 ああ、と、さも今気が付いたかのように言って、彼は自分の左手をくるくるとひっくり返して見た。この前までは確実にそこにあった指輪。まだ思い出せる、まっすぐなラインで、表面に少し彫り物がある白い指輪。

「この後、新しいのを買いに行こう。」

 君の指にはどんなのが似合うかな、と、私の手を取りながら彼は言った。

 眺めるたびに寂しくなった指輪。彼の指からいざ無くなってしまうと、急に今までの自分が滑稽に思えてくる。小さなアクセサリーひとつで、どうして私はあんなにも右往左往していたのか。

昨日の指輪と、今日の指輪。彼はたった数日の違いで、その身につける指輪を変えてみせることが出来る。なんて柔軟で、自由な男の人。

 私は特に指輪を身につけたことがない。かちゃかちゃと音がして、なんだか邪魔になりそうだ。指にだってしばらくは違和感があるだろう。それに慣れる頃には、世界も少し違う色になるのだろうか。

 二つのコーヒーが運ばれてきた。私は何も入れずに、ただぐるぐるとストローで、コーヒーと氷をかき混ぜる。

 彼がこの前までしていた指輪と同じデザインで、少しサイズの小さい指輪を、メグミさんはどうしてしまったのだろう。捨ててしまったのか、しまってあるのか、それとも、まだつけているのか。

 私はメグミさんのことを何も知らない。メグミさんも、私のことをあまり知らないのじゃないかと思う。私達はお互いに、連絡を取ってみようとしたこともないし、お互いのことを知ろうともしなかった。何も知らないままで、私はメグミさんに嫉妬することも出来なければ、もちろん憎むことも、哀れむことも出来ない。それなのに、時々メグミさんについて考える。今頃メグミさんは、どこでなにをどんな思いでしているのだろう。

「そんな男は、どうせまた同じことするのよ。」

 弥生は、厳しい。そんなことを言ったら私が後々気にするだろうということを知っていて、わざとそんなことを言う。今日、これから買いに行く指輪を、この人がまた同じように外す日が来たりするのだろうか。


 窓の外では雨が激しくなってきていた。商店街を歩く人はほとんどいない。向かいのお店の看板でさえ、霞んで余りよく見えない。

「ひどくなってきたな。落ち着くまで少しいようか。」

 そう言って彼はお代わりを頼んだ。

 ガラス窓を一枚隔てて、私達は今、雨に濡れないでいる。窓の外は薄暗くなってきていて、大粒の雨がアスファルトを打つ音が響く。裏腹に、店内では変わりなくバイオリンの曲が流れている。窓辺には小ぶりのあじさいが一枝生けてあった。紫のような、青のような、微妙で深い、静かな花々。

「どうして、」

 私の小さな声を、彼は危うく聞き漏らすところだったらしい。一拍置いてから、え、と聞き返す。

「どうして今日なの?」

 問いの意味をはかりかねたらしい彼は、困った顔をしながら首を傾げた。困った顔をしていても、まっすぐな背、バランスのいい笑顔。

「別の日がよかったかい?」

「そういうわけでは、」

 多分、そういうわけではない。答えに窮して、私は再び窓辺に目をやる。窓辺には一枝のあじさい、pHで色を変えるあじさい。

 手元のコーヒーを花瓶の中に流し込んだら、この花はどう色を変えるのだろう。ふとそんな疑問が浮かんだ。目の前のこの人の薬指に、昨日とは違う指輪を差し込んだら、この人はどう色を変えてしまうのだろう。そして私は。

「なんだか危ういな。」

 そう言って彼は伝票を手にした。

「早いところ済ませることは済ませてしまおう。君の気が変わらないうちにね。」

 今になって君に捨てられるわけにはいかない、と冗談めかして彼は立ち上がった。


 表に出ても、依然として雨足は衰えてはいなかった。紺色の傘を慎重に差して、彼は私の一歩前を歩く。なにか好みのブランドはあるかい、と、彼は私に気を遣い、どんな指輪がいいかを聞いてくる。私は雨音で聞こえなかったふりをして、ただ歩いていた。ついさっきまでぴしっとしていた彼のズボンの裾が、激しい雨の滴を受けて徐々に水分を増していく。私の足元も、雨が滲んでどんどん重たくなっていった。

 クリーニング屋とファーストフード店がある角を過ぎると、大きな道路を一本はさんで、目の前にはもう区役所が見える。雨の中で傘を差しているので、大きな区役所は何階建てなのかがよく見えない。あの中に入って、彼と一緒に戸籍課を訪ね、書類を一枚出したらそれですべてだ。それだけの作業。至って簡単な行為。

 ふと、胃の辺りが熱くなっていくのを感じた。前にも経験したことのある感じ。私の部屋にやって来て、一緒に夕飯を食べ、一緒にお風呂に入り、ベッドの中で過ごして少しまどろんだあと、再び立ち上がってスーツを身に着ける彼の背中を見ているときの感覚。肩にすがりつき、脚にしがみついてでも引き留めたいのに、出来ない瞬間。笑いたくても笑えない、泣きたくても泣けない、もどかしい自分をもてあますときの感覚。


「行くよ。」

 一声かけて、彼が突然走り始めた。目の前の横断歩道の信号が点滅している。

 私はとっさの出来事に、つい足が止まってしまった。うかうかしている間に信号が変わって、停止していた車が動き出す。彼は道路の向こう側で、困ったようなあきれたような顔をして、私の方を振り向いた。

 …今ならまだ、

 大きな道に隔てられてしまった自分達をかえりみて、不意にある考えが頭をよぎった。そんなことを考えた自分に一瞬驚き、心の中で反芻してみた。するとそれはますます大きく膨らんでくる。

 まさかそんな、と思い直して、彼の方を見る。彼は笑いながら私に向かって手を振った。

 私達の目の前を、ごうごうと音を立てながら車が何台も通り過ぎる。時折大きなトラックが通るので、彼の姿はまったく見えなくなる。同時に、彼から私の姿も見えなくなるはずだ。一台の車が歩道寄りを走ってきて、盛大に私の足元に水を跳ね上げた。あわてて後ずさりする。

 後ろを振り返ると、ファーストフード店の生け垣にあじさいが植えてあった。明るい桃色の鮮やかなあじさい。

 彼は相変わらず、困った顔をしながらこっちを見ている。少し笑みを浮かべて、私の方をまっすぐに見て。

 私はといえば、おろおろしている。まるで自分がどこにいるのか分からなくなった小さな子供のように。

 足元には水たまり。後ろにはきれいなあじさい。横断歩道の向こうでは、彼がほほえみながら待っている。私はまだまっさらな自分の薬指に目を落とし、どうしようもなく途方に暮れた。

(了)


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